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1963年から現在まで通算35年間L.A在住。日米比較、日系の歴史、生活の変化を書き綴っていきたい。私が遭遇した事件、話題、多くの有名人、ユニークな人たちを紹介したい。私の体験談、提言、情報が多くの皆さんのお役にたてば嬉しいです。
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2013年09月01日 (日) | 編集 |
私が通ったハリウッド高校は、今では荒れた高校になってしまったが、私が通っていた頃 ( 1968~1971) は、文武両道で他校の模範となった学校だった。もう40年以上前の話だ。この高校は、当時、目が不自由な生徒や、耳が不自由な生徒の特殊クラスがあり、遠くからも通ってきて30名ほどが在籍していた。

私は音楽を専攻していたので、目が不自由な生徒とコーラス隊や音楽のクラスが一緒だった。時折、彼らをサポートしたこともあり、彼らからはいろいろ学ぶ事があった。目が不自由な分、音には敏感で、特に音楽では彼らの才能が生かされた。

耳が不自由な難聴の生徒たちも私になぜかなついていた。その中に沖縄出身の日本人が一人、そしてアメリカ生まれの日系人が一人いた。
日系人のポールは、フットボールチームの名キッカーだった。耳が不自由でも試合に支障がないキッカーとして、ロサンゼルスの高校選抜にも選ばれたこともあった。

驚いたのは、アメリカでは彼らを特別扱いせず、普通に学校生活を送らせていたことだ。甘やかす事もないし、親が出てくる事もほとんどなかった。
私は、こういった高校生活を送っていたので、日本の身体障害者行政に疑問を持つことが多い。アメリカではバリアフリーの整備が進んでいて、日本より身障者に対する国民意識が高い。そのせいか、身障者の多くが自立して生活している。

我が高校にはもう一つ特殊クラスがあった。それは「高校生の母親クラス」だ。彼女たちはシングル・マザーも多かった。高校生であっても、やけに大人びていた生徒が多かった。みんなそれぞれ事情があって子供を出産したのだろう。それを問い詰めることもなかった。何人かは同じクラスだったのだが、からかったり、イジメたりすることもなかった。

もし、日本でこういった特殊クラスがあると、私が間違っているかもしれないが、面白がって、からかったり、虐めたりするような気がする。特に日本の高校生は社会との関わりが、まだ欠如しているし、考え方や経験値が幼い。
日本でよく選挙権を18歳に引き下げると言う議論をしているが、私は日本はまだ準備不足と思う。新聞も読まない、仕事もしない、大人の友達もいない、政治や政府についての学習不足で経験値が低い高校3年生が選挙?勘弁してくれよ!

30年前、日本食レストランでマネージャーをやっていた頃の話だ。その当時、たまに寿司カウンターに座る、20代後半の盲目の女性がいた。私は彼女に、どうやってここに来るのか聞いたことがある。彼女はバスを利用して、バス停から白杖を手に、レストランまで歩いて大好きな寿司を食べに来ていたのだ。彼女は日本人である私を信用していたので、私が食後、勘定を彼女の耳元でささやき、彼女は札には何らかの印を付けていたのだろうか、ちゃんと料金を私に払ってくれた。私がおつりを渡すと、コインを手で確認して、札は「これは何の紙幣ですか?」と私に聞いた。彼女はまわりにも、私たちにも迷惑どころか、ちゃんとチップまで渡してくれた。

いつもニッコと微笑んで、日本語で「ありがとう」と言ってバス停に向かっていた。今頃、彼女はどうしているのだろう?これが、アメリカだ!

しかし、最近の日本食レストランはシナ人や韓国人が働くので、おつりをちゃんと貰えるのか心配だ。だが、その後、技術も進化したので、何らかのツールが開発されたかもしれない。

そういえば私が小学6年生の頃、テキサスの選抜チームと柔道の試合をして、私の相手が手首の先が無い少年だった。この少年がとてつもなく強く、私は寝技で押さえ込まれて敗退した。
1960年代この頃のL.Aは柔道が盛んで、ロサンゼルスに柔道道場が100以上あった。私の世代の日系3世や日本から移民で入ってきた日本人の子供の多くは柔道の稽古に通っていた。その中でも私は強い部類に入っていたのだが、このテキサスからの少年との対戦で、一生忘れられない敗北感を味わったのだ。

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