1963年から現在まで通算35年間L.A在住。日米比較、日系の歴史、生活の変化を書き綴っていきたい。私が遭遇した事件、話題、多くの有名人、ユニークな人たちを紹介したい。私の体験談、提言、情報が多くの皆さんのお役にたてば嬉しいです。
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2013年04月26日 (金) | 編集 |
アメリカはすべてのことで世界をリードしているイメージがあるが、それは大間違いだ。
アメリカ生まれのアメリカ人の70%以上は海外旅行をしたことがない。特に地方に住むアメリカ人の多くは、アメリカを出国することなく生涯を終える。

アメリカ人の多くは外の世界を知らずして、アメリカがすべてにおいてNo.1と思い込んでいる。いかにアメリカより生産性の効率がよく、他人を思いやる日本を過小評価している。というより日本や日本人を知らなさすぎるのだ。

これは日本のPR不足もあるが、日本人が中国人や韓国人のように、民族性や価値観をゴリ押ししない国民性だからだろう。

アメリカは世界中からの移民が集まった他民族国家だ。特に1980年代以降に新移民が増え過ぎ、民族バランスが乱れてきた。
今はドライバー・ライセンス試験、生活保護申請などスペイン語、中国語、韓国語、ベトナム語などで受けれるのだ。だから、最近、やたらと英語ができない住人が増えてきた。(さて、余談はここまでにして、本題に入ります)


アメリカから私が選ぶ、世界に誇れる身近なモノを、今後シリーズでお届けしていきます。日本製はちょっと値段は高いが、品質がよく、長持ちするので結果的に安上がりと思うのだが。

まず、爪切り

日本製を使用したら、アメリカの爪切りとは無縁になる。まず、日本製は切り味が違う。「パチ、パチ」の日本製に対して、アメリカ製は「パチーン、パチーン」と力が5倍かかるし、切った爪が、あちらこちらに飛び散るのだ。
私の母が最近入所した「日系敬老介護ホーム」に日本製の爪切りをPRしたら、もうすでに数年前から使用しているらしい。

今治タオル
アメリカの富裕層の間で人気があります。アメリカのタオルは色だけは豊富に揃っているが、作りは雑で、洗えば変色したり、糸くずが出てきたりする。バスルームの飾りに過ぎない。
見た目は華やかだが、肌触りは悪いし、長持ちしない。あまり薦められない。要するに実用的ではない。

それと私は日本で、友人や親戚を訪ねると、新聞屋さんなどが景品で以前配っていた、「手ぬぐいタオル」を数枚持ち帰る。
これは私にとって、なかなか便利で利用価値がある商品なのだ。


鉛筆と鉛筆削り
これは絶対に日本製を使用する。日本に帰国の際、コンビニや100円ショップで買う、ごく普通のモノで十分です。日本で生活していると、何でもないモノでも、海外で生活すると有難さを実感する。
アメリカの鉛筆は新しくても、芯が一度折れると、どんなに削っても折れまくり、最終的に3cmぐらいになって無駄になる事が多い。その点、日本の鉛筆は削り心地も書き心地も最高。
鉛筆削りも刃の品質がいいので削り具合がいい。


和ろうそく
日本に帰国した時、福井県の曹洞宗総本山、永平寺や京都でで買う和ろうそくが最高だ。何といっても炎の安定性と大きさだ。以前、和ろうそくに向かって、手をかざして「気」を送った。そして「左に動け」と念じたら、左に炎が動き、「右に動け」と念じたら右に炎が動いた。こりゃあ凄いと思い、毎日10分ぐらい和ろうそくの炎に向かっていた。炎を見つめていると、心が落ち着くのです。
私は子供の頃、火遊びすると「寝小便する」と言われて育ちました。坂本龍馬は10歳過ぎても寝小便をしていたらしいが、私も自慢じゃないが、6、7歳ぐらいまで寝小便をしていたと記憶している。

ある日、日系スーパーで買った普通のロウソクで同じように念じたのだが、炎に変化なし。和ろうそくに向かうと何だか、異次元に入り込むような錯覚?と自分自身に霊気があるんじゃないかと思うほど異次元を体験出来るのだ。

宅急便、宅配
サービスと信頼性は日本が世界一だろう。アメリカの業者は、平気で荷物を投げたり、家の前に放置する。誰かが無断で持ち逃げしたらどうするんだろうと思う。客のための細かいサービス精神はアメリカ人は持ち合わせていない。
アメリカの郵便ポストに郵便物を投函して、5度相手に届かなかったことがある。だから直接、郵便局に行って投函する。これも100%安心とも思えないが・・・。

アメリカでは外国人は郵便局や公共施設では仕事ができない。勿論、参政権はない。
現在の日本の一部ですでに実施されている地方参政権は気違い沙汰だ!日本の地方議員や役人は何を考えているのか理解に苦しむ。

以前は日本に帰る度、大きな荷物を持って移動したものだ。今は空港からバッゲージを宅配サービスにお願いし、出発前には空港に宅配してもらう。何と安値で便利で信頼出来るサービスだろう。大阪万博で初めて帰国した時は、大型バッゲージを2つ、紙袋、バックパックで、移動する度、汗ビッショリだったことを思い出す。体力的にも今だと絶対無理である。そんなエネルギーは持ち合わせていないし、行動が制限されて効率が悪い。だから最近はいつも小さいバッグだけで身軽に動き回っている。

まだまだ日本が誇るものはいっぱいある。「おもてなし」もそうだが、今回はこの辺で。


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2013年04月09日 (火) | 編集 |

昨日は強風で屋根が飛ぶのではないかと心配した。屋根が2枚だけ剥がれたが、屋根の修理は結構大変なので、被害が少なくて良かった。


今年の日本は桜の開花が早く、もう東京では散っていると言う。今の時期に、東北、北海道の桜が満開らしい。我が家の桜は2月中旬に開花し、3月にはもう散ってしまった。今年は2月下旬が満開だった。まだ樹齢6年ぐらいの沖縄の寒緋桜の木でソメイヨシノよりずっと濃いピンク色だ。5年くらい前に私のクライアントの日本人から3本の苗木をいただいた。

植える場所が良くなかったのか、すくすく育ったのは1本だけ、あとは元気がなく、枯れてしまった。一昨年、掘り起こして日当りがいい場所に植え替えたが、その時、なぜか枯れた木が1本増えていた。その後、水を定期的に与えるようになったら見事に生き返った。1本自然増した分、今年は4本がきれいな桜の花を咲かせた。

ロサンゼルスの日系敬老介護ホームに母が入所して半年近くが経つ。今では週に5日、ほんの15分程顔を出し、洗濯物を持ち帰る。勿論、頼めばやってくれるのだが、管理が行き届かなく、紛失や行方不明になる。セーターなどは縮んだりするので任せられない。
この日系敬老介護ホームには250名以上の老人が入居している。設備も行き届き、約、150台分の駐車場もある。

看護婦、ソーシャルワーカー、介護士は日系とフィリピン人が多い。キッチンやハウスキーピングはメキシコや中南米のヒスパニックが多い。医師は日系が定期的に巡回するようだ。

先日、母の部屋替えがあり、3階から2階の通路から別の棟になり、食堂の場所も変わった。食堂で母の隣で食事していた日本語を話す97歳のおばあさんが元気なのには驚いた。頭もしっかりしていて、母の話し相手になってくれればいいなと思った。彼女は102歳のお姉さんと、この敬老介護ホームに入っているそうだ。母の事をよろしくとお願いした。

その数日後、食堂にそのおばあさんがいたので話そうと思ったら、私の事を覚えていないようだった。あれだけしっかりと話が出来るので安心していたのだが、どうも症状に波があるらしい。

母に「友達にここに入居した事を教えようか?」と言うと、「知らせないで」と言う。あまり人と会いたくも接したくもないようだ。
あれだけ社交的で、車であちこちに出かけ、旅行だって私以上に、世界各地に行ったのに。1963年以来、日本には4、5回ほど訪問しているが、もう祖国の土を踏む事はないだろう。

車イスも自分で操作する練習をしなさいと何度も言うが、やる気がない。好きだった読書も、「何か本か雑誌を持ってこようか?」と伝えても、「いらない」と最近は物事に関心を示さない。たまに中庭で話そうとするが、あまり反応がない。認知症ではないが、耳が遠く、調子がいい時は少し話すが、ほとんど無口。

今も週に5日、ほんの15分程だが、母の洗濯物を取りにいく。母がここに入所する前は、母の顔をじっくり見る事はなかったが、今は寝顔や食事をしている姿が瞼に焼き付けられる。

本来、今頃は日本で生活をしている筈だったが、母の介護が長引き、予定が大幅に狂った。だが、いろいろと諸事情が重なって、なかなか思い切った行動に移れない。

私は子供の時から何でも自分で考え、自分がやりたいように行動してきた。子供の時から自立していたのだ。小学5年生から中学1年生まで日系新聞の羅府新報や20年前に廃刊した加州毎日を毎日200部ほど配達していた。自転車をこぎながら2、30メートル先の入り口に、コントロールよく投げ込むのだ。

その後、土曜日は当時庭師をやっていた父の仕事を手伝い、夏休みは土方も経験した。中学一年生から高校2年生まで母が経営していた洗濯屋を学校が終わったら手伝っていた。

一番、忙しかった時代はこの頃で、洗濯屋の近くに住む吉田さんが日系の日本語劇団を立ち上げたが、メンバーが足りないということで私と兄が参加する事になった。週に3日、夜7時から10時半ぐらいまでリトル東京の西本願寺で稽古した。そして、自宅まで送ってもらい、宿題をして寝るのはいつも午前1時過ぎだった。そして、朝7時前に起きて、バスで中学校に通って、中学校から洗濯屋に通う毎日だった。
14、5歳だったが、「父帰る」と「赤い陣羽織」公演は大入り満員だった。そして、サンフランシスコの仏教会の主催でサンフランシスコまで行った。
この経験が後に役者を目指すきっかけを作ったのかもしれない。

高校生になり、16歳で免許証を取得してからは、洗濯の仕事が一段落したら配達をするようになった。母は日本で免許証を取得したのに、ペーパードライバーで運転能力がなかったからだ。

何か書きたい事が山のようにあるが、勢いで書いているのでどうもまとまらない。読む人は肩の力を抜いて、気軽に私の「アメリカに住む」おっさんのつぶやきを楽しんで下さい。


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