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1963年から現在まで通算35年間L.A在住。日米比較、日系の歴史、生活の変化を書き綴っていきたい。私が遭遇した事件、話題、多くの有名人、ユニークな人たちを紹介したい。私の体験談、提言、情報が多くの皆さんのお役にたてば嬉しいです。
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2015年05月08日 (金) | 編集 |

このブログも長いお間、御無沙汰していました。今後は定期的に新記事を更新していく決意です。
このブログは政治とは少し離れて私の青春日記、最近のL.Aよもやま話、私が出会った有名人やユニークな人たちを中心に書き綴っていきます。
なるべく長文にならないように努力するが、書き始めると次から次と思い出したり、話しがそれたりする恐れがあるので、御了承頂きたい。

ヒッチハイクから学んだあの頃「私は若かった」

私が自動車免許証を取得したのが1968年の後半だ。
その前の時代は目まぐるしい光と影がはびこる激動の時代であった。キューバ危機の後、ベトナム戦争が深刻化して、若者の価値観が大きく変わろうとした時代だ。

私が免許証を取得する頃は、ロスアンゼルス高校に通っていた。住んでいたのは西南地区で学校区はドーシー高校。だが、母が経営する洗濯屋に毎日通って、手伝っていたので、ここの住所でロサンゼルス高校に入学した。学校が終わったら、ゆっくり30分かけて徒歩で洗濯屋に向かい、汗ビッショリかきながら、数百枚のシーツの洗濯とアイロンにいそしんだ。

この時代は女性がヒッチハイクするのはあまり見かけなかった。私は2週間に1回くらいヒッチハイクした。いろんな人と接することが刺激的だったからだ。彼らから学んだことも多い。では、どういうタイプの人なら乗せてもらってもいいか、どういう人が危険か説明していこう。
まず、当時の私は15、6歳。見た目と態度は18歳以上のマセた青少年だった。今は逆で、10歳以上若く見られるが・・。

当然の事だが、まず、顔見知りの日系人は安心安全。だが、方向が同じで、目的地が近いと乗せてもらえるが、そうでなければパスされる。
次はオンボロ車に乗った白人で長髪のヒッピー。当時から価値観に縛られず、自由に生きようとする長髪のヒッピーが目立ち始め、主流に加わってきた。彼らの発祥はサンフランシスコともハリウッド近くのローレル・キャニオンとも言われている。

この時代から学校のトイレなどでマリファナや幻覚剤のピルが売られ始めた。私は薬物に関しては、厳格な父の影響で、関心がなかった。買うこともなかったので、中身は詳しくないが、ピルの色がピンク、イエロー、レッドなど色が付いていて、「レッドが欲しいか?」というような売り方をしていた。何人か、いかにもラリっているという若者が校内でも目立ち始めた。
ちなみに「ラリる」とはラリルレロが発音出来ない状態を言う。

当時からヒッピーは価値観に縛られないで自由に生きようとしていた。彼らの多くは自然を愛し、「愛、平和、セックス、自由」をキャッチフレーズに、その後、多くの若者が影響されていくことになる。
だからか、ヒッチハイカーにヒッピーが協力することは、彼らにとって自然なことだった。ただ、気を付けなくてはいけないのは、彼らがドラッグでハイになっているかどうか判断することが重要だ。目がトロンとしているヒッピーには、笑顔で丁重に断る。交通事故に巻き込まれてまでヒッチハイクする意味がない。

ちょっと遅れて日本でもそういった人たちが増え、「フーテン」と呼称されたらしいが、私にはフーテンとヒッピーは別物に思えてしょうがない。
そして次に乗せてくれるタイプで多いのが、ゲイである。気に入った男性を物色し、目をキョロキョロさせながらドライブしている。当時はまだ、彼らは白い目で見られ、ほとんどがカミングアウトしていない時代である。彼らにとって時代的に出会いの場が確実に不足していたのだろう。それも東洋人の若い青少年とはめったに出会うことはない。

まだゲイバーが世間から隠れて店を営業していた時代である。アメリカは70年代に入って急激にゲイ文化が台頭してきた。そして、80年代には彼らは社会から認知されるほど勢いづいた。だが、60年代は日本の方がゲイ文化はオープンだったかもしれない。
言っておくが、私は当時も今もストレートでゲイではない!

ゲイの車に乗ると2、3マイルの短い距離だったら会話にもついていける。だが、5マイルくらいになると話の内容が怪しくなる。彼らはしつこく住所や電話番号を聞いて来る。まあ、慣れてくると、ニコッと微笑み、電話番号を書いてやる。勿論、デタラメの番号だ。

本来、ヒッチハイカーは大通り沿いの、車を停めやすいところで降ろしてもらう。しかし、ゲイは目的地まで付いてこようとする。ストーカー行為は御勘弁願いたいので、こちらは適当の場所で降ろしてもらおうとする。その駆け引きが大変なのだが、この経験が意外と後に生かされてきている。
ヒッチハイクで気を付けなくてはいけないのは、車に同乗者がいる場合はパスだ。運転者一人でないと危険のリスクが高まる。特に男性が2人以上だと、親指を上にあげて車を止めることはない。こういう車は完全に無視する。

見た目が中流階級の黒人の老夫婦はOKだ。こういう人たちからは、いい話が聞ける。リタイヤした学校の先生だったり、リタイアした役人だったりする。何人かはその後、自宅パーティーに誘ってくれた。
一般の白人の車は?まだまだ白人とは距離感がある時代で、車が停まることはまずなかった。
白人女性の2人以上も危険を感じる。この当時、乗ったことがないからなぜかは言えないが、私の動物的本能が私にマズイと知らせてくれる。

何はともあれ、当時のアメリカはちょっと間違えると危険が一杯だった。私は5つぐらいの手作りの武器をいつも携帯していた。おかげさまで使用したことは一度もなかったが、いつも危険を意識して行動していた。口をポカーンと開けて歩いたことは記憶にない。後ろから、横から、前から近づく人にはいつも注意を払って、いつでも反撃出来る準備をしていた。

私はヒッチハイクから、人間観察を学んだ気がする。そして状況判断と空気を読むこと。ちょっとした判断ミスが危険を呼び込むからだ。15、6歳でも多くの社会人たちと接し、車を運転する前から経験値は相当、高くなっていた。

こういうティーン・エージャーが車の免許を取得して、ヒッチハイクを卒業した。次は私が困っている人たちを乗せる番なのだ。そして、私にとって新たな冒険が待ち構えていた。



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2013年09月01日 (日) | 編集 |
私が通ったハリウッド高校は、今では荒れた高校になってしまったが、私が通っていた頃 ( 1968~1971) は、文武両道で他校の模範となった学校だった。もう40年以上前の話だ。この高校は、当時、目が不自由な生徒や、耳が不自由な生徒の特殊クラスがあり、遠くからも通ってきて30名ほどが在籍していた。

私は音楽を専攻していたので、目が不自由な生徒とコーラス隊や音楽のクラスが一緒だった。時折、彼らをサポートしたこともあり、彼らからはいろいろ学ぶ事があった。目が不自由な分、音には敏感で、特に音楽では彼らの才能が生かされた。

耳が不自由な難聴の生徒たちも私になぜかなついていた。その中に沖縄出身の日本人が一人、そしてアメリカ生まれの日系人が一人いた。
日系人のポールは、フットボールチームの名キッカーだった。耳が不自由でも試合に支障がないキッカーとして、ロサンゼルスの高校選抜にも選ばれたこともあった。

驚いたのは、アメリカでは彼らを特別扱いせず、普通に学校生活を送らせていたことだ。甘やかす事もないし、親が出てくる事もほとんどなかった。
私は、こういった高校生活を送っていたので、日本の身体障害者行政に疑問を持つことが多い。アメリカではバリアフリーの整備が進んでいて、日本より身障者に対する国民意識が高い。そのせいか、身障者の多くが自立して生活している。

我が高校にはもう一つ特殊クラスがあった。それは「高校生の母親クラス」だ。彼女たちはシングル・マザーも多かった。高校生であっても、やけに大人びていた生徒が多かった。みんなそれぞれ事情があって子供を出産したのだろう。それを問い詰めることもなかった。何人かは同じクラスだったのだが、からかったり、イジメたりすることもなかった。

もし、日本でこういった特殊クラスがあると、私が間違っているかもしれないが、面白がって、からかったり、虐めたりするような気がする。特に日本の高校生は社会との関わりが、まだ欠如しているし、考え方や経験値が幼い。
日本でよく選挙権を18歳に引き下げると言う議論をしているが、私は日本はまだ準備不足と思う。新聞も読まない、仕事もしない、大人の友達もいない、政治や政府についての学習不足で経験値が低い高校3年生が選挙?勘弁してくれよ!

30年前、日本食レストランでマネージャーをやっていた頃の話だ。その当時、たまに寿司カウンターに座る、20代後半の盲目の女性がいた。私は彼女に、どうやってここに来るのか聞いたことがある。彼女はバスを利用して、バス停から白杖を手に、レストランまで歩いて大好きな寿司を食べに来ていたのだ。彼女は日本人である私を信用していたので、私が食後、勘定を彼女の耳元でささやき、彼女は札には何らかの印を付けていたのだろうか、ちゃんと料金を私に払ってくれた。私がおつりを渡すと、コインを手で確認して、札は「これは何の紙幣ですか?」と私に聞いた。彼女はまわりにも、私たちにも迷惑どころか、ちゃんとチップまで渡してくれた。

いつもニッコと微笑んで、日本語で「ありがとう」と言ってバス停に向かっていた。今頃、彼女はどうしているのだろう?これが、アメリカだ!

しかし、最近の日本食レストランはシナ人や韓国人が働くので、おつりをちゃんと貰えるのか心配だ。だが、その後、技術も進化したので、何らかのツールが開発されたかもしれない。

そういえば私が小学6年生の頃、テキサスの選抜チームと柔道の試合をして、私の相手が手首の先が無い少年だった。この少年がとてつもなく強く、私は寝技で押さえ込まれて敗退した。
1960年代この頃のL.Aは柔道が盛んで、ロサンゼルスに柔道道場が100以上あった。私の世代の日系3世や日本から移民で入ってきた日本人の子供の多くは柔道の稽古に通っていた。その中でも私は強い部類に入っていたのだが、このテキサスからの少年との対戦で、一生忘れられない敗北感を味わったのだ。


2013年04月09日 (火) | 編集 |

昨日は強風で屋根が飛ぶのではないかと心配した。屋根が2枚だけ剥がれたが、屋根の修理は結構大変なので、被害が少なくて良かった。


今年の日本は桜の開花が早く、もう東京では散っていると言う。今の時期に、東北、北海道の桜が満開らしい。我が家の桜は2月中旬に開花し、3月にはもう散ってしまった。今年は2月下旬が満開だった。まだ樹齢6年ぐらいの沖縄の寒緋桜の木でソメイヨシノよりずっと濃いピンク色だ。5年くらい前に私のクライアントの日本人から3本の苗木をいただいた。

植える場所が良くなかったのか、すくすく育ったのは1本だけ、あとは元気がなく、枯れてしまった。一昨年、掘り起こして日当りがいい場所に植え替えたが、その時、なぜか枯れた木が1本増えていた。その後、水を定期的に与えるようになったら見事に生き返った。1本自然増した分、今年は4本がきれいな桜の花を咲かせた。

ロサンゼルスの日系敬老介護ホームに母が入所して半年近くが経つ。今では週に5日、ほんの15分程顔を出し、洗濯物を持ち帰る。勿論、頼めばやってくれるのだが、管理が行き届かなく、紛失や行方不明になる。セーターなどは縮んだりするので任せられない。
この日系敬老介護ホームには250名以上の老人が入居している。設備も行き届き、約、150台分の駐車場もある。

看護婦、ソーシャルワーカー、介護士は日系とフィリピン人が多い。キッチンやハウスキーピングはメキシコや中南米のヒスパニックが多い。医師は日系が定期的に巡回するようだ。

先日、母の部屋替えがあり、3階から2階の通路から別の棟になり、食堂の場所も変わった。食堂で母の隣で食事していた日本語を話す97歳のおばあさんが元気なのには驚いた。頭もしっかりしていて、母の話し相手になってくれればいいなと思った。彼女は102歳のお姉さんと、この敬老介護ホームに入っているそうだ。母の事をよろしくとお願いした。

その数日後、食堂にそのおばあさんがいたので話そうと思ったら、私の事を覚えていないようだった。あれだけしっかりと話が出来るので安心していたのだが、どうも症状に波があるらしい。

母に「友達にここに入居した事を教えようか?」と言うと、「知らせないで」と言う。あまり人と会いたくも接したくもないようだ。
あれだけ社交的で、車であちこちに出かけ、旅行だって私以上に、世界各地に行ったのに。1963年以来、日本には4、5回ほど訪問しているが、もう祖国の土を踏む事はないだろう。

車イスも自分で操作する練習をしなさいと何度も言うが、やる気がない。好きだった読書も、「何か本か雑誌を持ってこようか?」と伝えても、「いらない」と最近は物事に関心を示さない。たまに中庭で話そうとするが、あまり反応がない。認知症ではないが、耳が遠く、調子がいい時は少し話すが、ほとんど無口。

今も週に5日、ほんの15分程だが、母の洗濯物を取りにいく。母がここに入所する前は、母の顔をじっくり見る事はなかったが、今は寝顔や食事をしている姿が瞼に焼き付けられる。

本来、今頃は日本で生活をしている筈だったが、母の介護が長引き、予定が大幅に狂った。だが、いろいろと諸事情が重なって、なかなか思い切った行動に移れない。

私は子供の時から何でも自分で考え、自分がやりたいように行動してきた。子供の時から自立していたのだ。小学5年生から中学1年生まで日系新聞の羅府新報や20年前に廃刊した加州毎日を毎日200部ほど配達していた。自転車をこぎながら2、30メートル先の入り口に、コントロールよく投げ込むのだ。

その後、土曜日は当時庭師をやっていた父の仕事を手伝い、夏休みは土方も経験した。中学一年生から高校2年生まで母が経営していた洗濯屋を学校が終わったら手伝っていた。

一番、忙しかった時代はこの頃で、洗濯屋の近くに住む吉田さんが日系の日本語劇団を立ち上げたが、メンバーが足りないということで私と兄が参加する事になった。週に3日、夜7時から10時半ぐらいまでリトル東京の西本願寺で稽古した。そして、自宅まで送ってもらい、宿題をして寝るのはいつも午前1時過ぎだった。そして、朝7時前に起きて、バスで中学校に通って、中学校から洗濯屋に通う毎日だった。
14、5歳だったが、「父帰る」と「赤い陣羽織」公演は大入り満員だった。そして、サンフランシスコの仏教会の主催でサンフランシスコまで行った。
この経験が後に役者を目指すきっかけを作ったのかもしれない。

高校生になり、16歳で免許証を取得してからは、洗濯の仕事が一段落したら配達をするようになった。母は日本で免許証を取得したのに、ペーパードライバーで運転能力がなかったからだ。

何か書きたい事が山のようにあるが、勢いで書いているのでどうもまとまらない。読む人は肩の力を抜いて、気軽に私の「アメリカに住む」おっさんのつぶやきを楽しんで下さい。


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