1963年から現在まで通算35年間L.A在住。日米比較、日系の歴史、生活の変化を書き綴っていきたい。私が遭遇した事件、話題、多くの有名人、ユニークな人たちを紹介したい。私の体験談、提言、情報が多くの皆さんのお役にたてば嬉しいです。
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2013年03月05日 (火) | 編集 |
まず第一回目は
私が渡米した時代にタイムスリップします。私のアメリカとの出会いの原点である。

私は1963年8月30日、神戸港から母、兄、弟と父が待つアメリカへと旅立った。11歳のときだ。
今回は、三井大阪商船(今は名称が変わった)の移民船「アルゼンチナ丸」が神戸港から出港する様子を書きました。少しでも当時の情景、思い入れが伝われば光栄です。



神戸港の埠頭に横付けされた船のデッキには、ブラジルやアメリカで新たな生活を決意した人たちで埋め尽くされていた。みんな新天地での生活に夢と希望と不安を胸に抱いて興奮状態だった。

当時、みんなの決意のあとの自信が漂った表情は、明るく凛とした態度だった。
出港の時間が迫っていた。突然、誰かのかけ声と共に船上に紙テープが投げ込まれた。一本の紙テープが合図だったように、次々と色とりどりの紙テープが船体を覆った。夏の生ぬるい風で、テープが絡み合いながら揺れている。
風も歓声も人の動きも演出効果を高めている。紙テープや日の丸の小旗もドラマチックな盛り上がりに欠かせない小道具となっていた。見送りに来ていた親戚の姿を見失った。これだけ人が多いと探し出すのが難儀である。弟が彼らの姿を見つけたと私に知らせてくれた。僕たちは親戚が輪をつくっている場所がよく見える、真向かいに当たる船体の中央付近の甲板デッキに陣取った。

手を振る人、旗を振る人、「万歳」を三唱しているグループ、泣きじゃくる人、声をからして叫ぶ人など、力一杯の真剣な表現が港に騒々しさをかもし出した。まるで活気ある騒音と雑音のキャッチボールが桟橋と船のデッキで繰り広げられている。映画のクライマックス・シーンを見ているようで、こみ上げるものを感じた。こんな感動的な体験は初めてなのだ。つい目頭が熱くなってきた。

それに追い打ちをかけるように汽笛の音、銅鑼の音、BG音楽が入り乱れた。騒音がピークに達した時、「蛍のひかり」が流れ出した。僕の聴覚に、ボリュームを上げた「蛍の光」のメロデイーが鮮明に入り込んで来た。この瞬間を一生忘れる事は無いだろうと思いつつ、周辺にいる人たちを一人ずつ観察した。彼らの表情を見ているだけで切なさが伝わってくるのだ。桟橋は僕が今まで体験した事が無いほどの熱気と興奮に包まれていた。

小雨がパラつき始めた。だが、誰も傘をさそうとしない。それぞれの想いを背負って別れを惜しんでいた。僕も身体中を湿らせながら、親戚の集団を見つめていた。今度はいつ再びこの人たちと会えるのか・・少し不安になって来た。私の思い出がつまっている祖国、日本の土を、また再び踏めるのかと思うと、急に寂しさがこみ上げて来た。

その時、汽笛が「ボーッ!ボーッ!」と地響きのような揺れと共に大きく鳴り響いた。スクリューが音を立てて回る。移民船「アルゼンチナ丸」はアメリカ、そして最終目的地のブラジル・サントスに向けて、ゆっくりと動き始めた。桟橋から数十メートル離れた時、色とりどりの紙テープが伸びきった。まだまだみんなの歓声が聞こえる。そして紙テープが次々と音もたてずに切れていった。一瞬、表情が凍ってしまった。日本との関係がプッツンと切れてしまった悲しみに襲われた。デッキのあちらこちらから一斉に溜め息が耳に入ったのは、果たして僕の錯覚か?耳元にはまだかすかに「蛍の光」が聞こえている。

船体が少し揺れながら、旋回した。スクリューが渦をつくりながら船体の向きを変えた。「蛍の光」のBGMもスクリューの音と汽笛の音に消され、小さくフェードアウトしていく。もう親戚の姿はぼんやりとしか僕の視界に入らない。でも僕はいつまでも視線だけは親戚がいる桟橋に向けた。彼らの表情は見えないが、手を振る姿は確認できた。僕も溢れ出る涙をこらえることもなく、手を振り続けた。

神戸を出港した後の、船の中での生活は快適だった。田舎で育った私には見るもの触れるもの全てが新鮮に感じた。しいて言えば、大好きだったテレビ番組が見られなくなったことかな。あの当時、「お笑い三人組」、「てなもんや三度笠」、マイアミを舞台にした6人のカッコいい探偵の話「サースサイドシックス」、ロサンゼルスが舞台のいたずらっ子「わんぱくデニス」などが好きな番組だった。テレビ少年だった私にはテレビが見られないことと、一緒に遊んだ友達たちが今、ここにいないことが心の隙間を広げた。

船は神戸を発った翌日の朝、横浜港に入港した。天気は曇り空。雨は降りそうにない。
再出港まで5時間以上あるというので、私たちは横浜の街を散策する事にした。どこをどう歩いたらいいか、田舎者の私たちには都会は複雑すぎた。まず、中華街、そして元町に行った。元町の洋風の食堂に入って、カレーライスを食べた。今まで経験した事がなかった高級な味に感激した。母に言われ、なるべく時間をかけて何度も何度も味を噛み締めた。その後、ベンチでちょっと休み、ソフトクリームを買ってもらった。

それから、いよいよ完成したばかりのマリーンタワーを目指して歩いた。近くから見る雄大な姿のマリーンタワーは私が今まで見た建物では最高の高さを誇っている。高さ106メートル、展望室でも91メートルもあると知らされていた。

エレベーターで展望室に入った途端、眼前に広がる景観に、一瞬言葉を失った。窓際に近づき、眼下に見える山下公園、倉庫街、客船に視線を走らる。あまりの美しい景観に驚きを隠せず、私は興奮していた。見るものすべてが私の記憶に焼き付いていく。横浜の街は調和がとれた異国のように映った。こんな高さも初めてなら、横浜のような大都市も初めて。それこそ11歳の少年にはカルチャーショックと言っても過言ではない。もう一度、波止場に目をやった。我々が乗船していた「アルゼンチナ丸」が堂々と位置していた。眼下の大通りには人や車が蟻のように動き回っていた。

私は売店でマリーンタワーのミニチュア模型と絵ハガキを母に買ってもらった。それ以上に気に入ったのが、無料説明パンフレットだ。信号待ちしている時も、A-5サイズの数ページの写真と活字を追っていた。

私たちは少し早めに戻ってきた。桟橋に近づくとびっくりするほどの大型外国客船が、「アルゼンチナ丸」の真向かいにイカリを下ろしていた。上には上があるものだ。まるで子供と大人ほど違いがあるのだ。私は急いで「アルゼンチナ丸」のデッキに上がった。デッキの位置も、向かいの客船の方が数メートルも高い。そう思っていたら、大勢の外国人が、下船を始めた。何人かが私に手を振っている。彼らは体格が良く、明るく、優雅で、堂々としていた。日本人の地味な服装とは対照的に彼らは派手な色を好んで着込んでいた。私は憧れの眼で彼らを見ている自分に気づいた。

面白いもので、何分か外国人を見ていたら、少し慣れてきた。私は少し恥ずかしかったが、勇気を振り絞って彼らに手を振った。一人の老人が私に気づき手を振り返してきた。私は慣れてきた勢いで、手を振り続け、彼らと一緒に「ハーイ」を繰り返した。そのうち声にも勢いがつき、自分の中から自信が芽生えてきた。ハーイは挨拶言葉だとは想像が出来たが、それより何十回と繰り返すうちに、外国人たちを身近に感じた。こんなにハイになって人に挨拶することは今までなかったことだ。そういう自分に驚いている。そのうち、異国の人たちの群れが山下公園から街中へと移動し、私の視界から消えて行った。

横浜は異国情緒が豊かだ。田舎からいきなりロサンゼルスではなく、神戸、横浜に来た事で、ロサンゼルスでもやって行けるんじゃないかと、少しだけ自信がついた。都会の生活も満更じゃなさそうだ。ロサンゼルスは横浜より都会だろうか?アメリカって果たして、どんな国だろう?テレビで見た、わんぱくでニスは近くに住んでいるだろうか?私は甲板から真向かいの大型客船をボンヤリ眺めながら、今後のアメリカの生活を想像した。

その時汽笛の音と、意味不明の音が風に混ざって、私の耳に心地よく入り込んだ。「心配ないよ」と私には聞こえた。いや、聞こえたつもり?大型客船の隙間から吹いてきた風がそういう錯覚を私に与えたのか?どうも私はいつも想像の世界で楽しんでいたせいで、現実がごちゃ混ぜになる。何でも都合のいい言葉に置き換える習慣があるようだ。

それから、どのくらいの時間が経ったのだろう。眼下に日本人の数がダルマ式に増えて来る。私は何かの気配を感じたので後ろを振り向いた。神戸から乗船してきた加藤さんがすぐ後ろに立っていた。視線が合ったので私は加藤さんに尋ねた。「さっきから人が増えてきたけど何かあるの?」と。
加藤さんは「僕たちは神戸から乗船しただろ?今度は横浜から大勢が乗船するんだ。こっちの方が多いと思うよ」

そうか、だから船の中が、思っていたよりガランとしていたんだ。そうだよな。そうじゃなければ横浜に停泊する意味が無いものなあ。今度はどんな人たちが乗船して来るのだろう?

今度こそ、この横浜を出港すると、いよいよ太平洋を航海して、目的地ロサンゼルスに到着するのだ。

やがて甲板は人で溢れ返った。またもや神戸と同じく紙テープが投げられ絡み付いた。汽笛の音が何度か鳴らされると、スクリューが音を立てて回り始めた。何千本というテープが色とりどりの線を描き、絡み合って、やがてプツリと切れ始めた。船はタグボートにより向きを変えられ、そして大海原に向かって進み始めた。桟橋も見えなくなり、横浜の街並でひと際目立つマリーンタワーが正面に見え、私たちを見送ってくれた。船はどんどん進み、横浜の全貌が瞼に焼き付いた。同時に潮風が気持ちを清めるかのように僕の肌にベタついた。心地よい風に涙も乾いてしまったようだ。僕の脳裏には田舎での楽しかった出来事がコマ切れで映し出されれる。僕は太平洋の大海原にささやくように語りかけた。「また日本に戻ってくるよ」と。

「アルゼンチナ丸」はその後、13日間をかけて太平洋を航海し、私たちをロサンゼルス・サンペドロ港に運んでくれるのだ。これからどんな出会いがあり、どんな試練が私を待っているだろう?この大海原の上で過ごすのも、きっと今後の良い体験となるだろう。
父が送ってくれた写真に写るL.Aの青い空が、私たちを明るく迎えてくれると信じて「いざ、出発だ!」




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