1963年から現在まで通算35年間L.A在住。日米比較、日系の歴史、生活の変化を書き綴っていきたい。私が遭遇した事件、話題、多くの有名人、ユニークな人たちを紹介したい。私の体験談、提言、情報が多くの皆さんのお役にたてば嬉しいです。
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2015年05月08日 (金) | 編集 |

このブログも長いお間、御無沙汰していました。今後は定期的に新記事を更新していく決意です。
このブログは政治とは少し離れて私の青春日記、最近のL.Aよもやま話、私が出会った有名人やユニークな人たちを中心に書き綴っていきます。
なるべく長文にならないように努力するが、書き始めると次から次と思い出したり、話しがそれたりする恐れがあるので、御了承頂きたい。

ヒッチハイクから学んだあの頃「私は若かった」

私が自動車免許証を取得したのが1968年の後半だ。
その前の時代は目まぐるしい光と影がはびこる激動の時代であった。キューバ危機の後、ベトナム戦争が深刻化して、若者の価値観が大きく変わろうとした時代だ。

私が免許証を取得する頃は、ロスアンゼルス高校に通っていた。住んでいたのは西南地区で学校区はドーシー高校。だが、母が経営する洗濯屋に毎日通って、手伝っていたので、ここの住所でロサンゼルス高校に入学した。学校が終わったら、ゆっくり30分かけて徒歩で洗濯屋に向かい、汗ビッショリかきながら、数百枚のシーツの洗濯とアイロンにいそしんだ。

この時代は女性がヒッチハイクするのはあまり見かけなかった。私は2週間に1回くらいヒッチハイクした。いろんな人と接することが刺激的だったからだ。彼らから学んだことも多い。では、どういうタイプの人なら乗せてもらってもいいか、どういう人が危険か説明していこう。
まず、当時の私は15、6歳。見た目と態度は18歳以上のマセた青少年だった。今は逆で、10歳以上若く見られるが・・。

当然の事だが、まず、顔見知りの日系人は安心安全。だが、方向が同じで、目的地が近いと乗せてもらえるが、そうでなければパスされる。
次はオンボロ車に乗った白人で長髪のヒッピー。当時から価値観に縛られず、自由に生きようとする長髪のヒッピーが目立ち始め、主流に加わってきた。彼らの発祥はサンフランシスコともハリウッド近くのローレル・キャニオンとも言われている。

この時代から学校のトイレなどでマリファナや幻覚剤のピルが売られ始めた。私は薬物に関しては、厳格な父の影響で、関心がなかった。買うこともなかったので、中身は詳しくないが、ピルの色がピンク、イエロー、レッドなど色が付いていて、「レッドが欲しいか?」というような売り方をしていた。何人か、いかにもラリっているという若者が校内でも目立ち始めた。
ちなみに「ラリる」とはラリルレロが発音出来ない状態を言う。

当時からヒッピーは価値観に縛られないで自由に生きようとしていた。彼らの多くは自然を愛し、「愛、平和、セックス、自由」をキャッチフレーズに、その後、多くの若者が影響されていくことになる。
だからか、ヒッチハイカーにヒッピーが協力することは、彼らにとって自然なことだった。ただ、気を付けなくてはいけないのは、彼らがドラッグでハイになっているかどうか判断することが重要だ。目がトロンとしているヒッピーには、笑顔で丁重に断る。交通事故に巻き込まれてまでヒッチハイクする意味がない。

ちょっと遅れて日本でもそういった人たちが増え、「フーテン」と呼称されたらしいが、私にはフーテンとヒッピーは別物に思えてしょうがない。
そして次に乗せてくれるタイプで多いのが、ゲイである。気に入った男性を物色し、目をキョロキョロさせながらドライブしている。当時はまだ、彼らは白い目で見られ、ほとんどがカミングアウトしていない時代である。彼らにとって時代的に出会いの場が確実に不足していたのだろう。それも東洋人の若い青少年とはめったに出会うことはない。

まだゲイバーが世間から隠れて店を営業していた時代である。アメリカは70年代に入って急激にゲイ文化が台頭してきた。そして、80年代には彼らは社会から認知されるほど勢いづいた。だが、60年代は日本の方がゲイ文化はオープンだったかもしれない。
言っておくが、私は当時も今もストレートでゲイではない!

ゲイの車に乗ると2、3マイルの短い距離だったら会話にもついていける。だが、5マイルくらいになると話の内容が怪しくなる。彼らはしつこく住所や電話番号を聞いて来る。まあ、慣れてくると、ニコッと微笑み、電話番号を書いてやる。勿論、デタラメの番号だ。

本来、ヒッチハイカーは大通り沿いの、車を停めやすいところで降ろしてもらう。しかし、ゲイは目的地まで付いてこようとする。ストーカー行為は御勘弁願いたいので、こちらは適当の場所で降ろしてもらおうとする。その駆け引きが大変なのだが、この経験が意外と後に生かされてきている。
ヒッチハイクで気を付けなくてはいけないのは、車に同乗者がいる場合はパスだ。運転者一人でないと危険のリスクが高まる。特に男性が2人以上だと、親指を上にあげて車を止めることはない。こういう車は完全に無視する。

見た目が中流階級の黒人の老夫婦はOKだ。こういう人たちからは、いい話が聞ける。リタイヤした学校の先生だったり、リタイアした役人だったりする。何人かはその後、自宅パーティーに誘ってくれた。
一般の白人の車は?まだまだ白人とは距離感がある時代で、車が停まることはまずなかった。
白人女性の2人以上も危険を感じる。この当時、乗ったことがないからなぜかは言えないが、私の動物的本能が私にマズイと知らせてくれる。

何はともあれ、当時のアメリカはちょっと間違えると危険が一杯だった。私は5つぐらいの手作りの武器をいつも携帯していた。おかげさまで使用したことは一度もなかったが、いつも危険を意識して行動していた。口をポカーンと開けて歩いたことは記憶にない。後ろから、横から、前から近づく人にはいつも注意を払って、いつでも反撃出来る準備をしていた。

私はヒッチハイクから、人間観察を学んだ気がする。そして状況判断と空気を読むこと。ちょっとした判断ミスが危険を呼び込むからだ。15、6歳でも多くの社会人たちと接し、車を運転する前から経験値は相当、高くなっていた。

こういうティーン・エージャーが車の免許を取得して、ヒッチハイクを卒業した。次は私が困っている人たちを乗せる番なのだ。そして、私にとって新たな冒険が待ち構えていた。



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2014年10月04日 (土) | 編集 |

あまりにも不名誉な3ヶ月以上の記録的ブログ更新中断で、前回、どこまで書いたか忘れてしまった。何度か記事を更新しようとしたが、書き始めては止めの繰り返しだった。
前回のブログ記事を読んだら、サンノゼ、サンフランシスコ、ヨセミテ国立公園に向かうところで終わっている。
皆さんには申し訳ないが、この続きを思い出しながら書いていく。

結果的にこのサンノゼ、サンフランシスコ、ヨセミテ旅行は、リラックスどころかヒドイ旅行になってしまった。ドライブ中、ノドの乾き、ドライマウス、その上、2、30分おきのトイレタイム。街中ではマクドナルドなどファーストフード店のトイレに何十回直行したことか。サンノゼまで直行だと7時間ぐらいで着くのだが、10時間ぐらいかかってしまった。

ホテルでも夜中、30分おきにトイレタイム。寝たり起きたりで十分な睡眠が取れなかった。もう睡眠不足でフラフラ。猛暑の中、体調は最悪でドライブ中は睡魔が何度も襲ってきた。結果的に1週間のノンビリ旅行を3日で切り上げ、ヨセミテも観光どころか、何十枚か写真を撮って素通りしただけだ。ハイウェーでは度々、路肩に車を停めて立ち小便。見つかったら違反チケットを切られるらしいが、そんなことを考える余裕もないし知った事か。我慢もできない程の強烈な尿意には、ルールや法律など、恥も外聞もクソ食らえという気になる。放尿した後の爽快感は経験者にしかわからないだろう。

L.Aエリアに入る直前にマクドナルドのトイレに直行。自宅までの30分は持たせようと準備万端と思いきやフリーウェイは交通渋滞。自宅に到着する前に2度も尿意のためフリーウエイから出た。暗闇の住宅街でベストの場所を見つけ、周辺を気にしながら一気に放出。
あとで友人から尿瓶やオムツを用意すれば良かったのにと言われたが、出発前には思考力も低下していたのか、そんな簡単な事さえ思いつきもしなかった。

ブログを休刊している間、個人的なメールやメッセージを何百通と書いた。特に体調が良くない時期に、無理して長文を書いたメールの数々は「骨折り損のくたびれ儲け」になってしまった。体調不良で疲れている中、責任感と義務感と私の好意で、情報を提供してやったというのに。こんなにシンドイ思いをして、結果的に何のために書いたのだという思いでいっぱいになった。
最近は正直者が報われないのか?私の生の情報が生々しすぎるのか?これでは結果的に知らん顔していた方が良かったとさえ思う。

まあ、ブログ記事は更新していなかったが、ツイターやフェースブックではどうにか活動を継続している。多くの方々から、御心配のメールをいただきました。この場をお借りして、御礼申し上げます。

糖尿病は恐ろしい。一時は拒食症にでもなったかのようにゲッソリと痩せ、体重が急激に86キロから73キロに落ちた。お腹がへるし、食欲はあるのだが、お尻や脚の肉がそげ落ち、どうなることやらと心配していた。よくタレントなどが拒食症か何かの病気でゲソっと痩せた姿を見て、私とは無縁な事だと思っていた。だが、今では他人事ではないことを実感している。

今回は我ながら、みんなに自慢出来るほど必死で頑張った。お蔭で今は体重が8キロ戻って81キロだ。健康な時は、どれだけ頑張っても減量が困難だったのに、血糖値が最高値に達した頃には、ウソのように体重が落ちていった。今はトレーニングで筋肉を増やしながら体重を増やしているので、体が以前より締まってきた。シコを週に5日、毎日200回踏んで、下半身の筋肉はほぼ張りが戻った。シコを踏むのは下半身強化にもってこいだ。

私は入院せず、処方箋、運動、食事療法で克服した。我ながら、自分自身を褒めてやりたい。御陰さまで、糖尿病を95%は克服したと自負している。
だが、二度目の再発を経験し、糖尿病が油断大敵であることも思い知った。食事療法など日本語と英語で数冊は読み込み、ネットでも検索したので糖尿病に関する知識もついた。

人間、歳を取るといろいろとガタがくるものだ。と言っても原因は私の不摂生と生活習慣の乱れから来ているのだから言い訳にしか聞こえまい。
ネットでの言論活動をやっていると、つい日本の時間に合わせてしまう。そして画面を見つめ続けるので、目が疲れる。ということで慢性の睡眠不足や間食が増え、生活習慣病という、あまり自慢にならない結果となった。ここ数年、アクビの回数が増え続けているが、これは今でもなかなか改善出来ない。

私はどうも怪我には強いのだが、風邪であれ、病気で体調不良になると、体内エネルギーが低下し無気力状態になる。何にもやりたくないモードに突入し、エネルギッシュな本来の自分の姿から遠ざかる。

今まで病気というと腎結石(これは病気ではないが)と糖尿だけだ。年齢の割にはいたって健康体だった。そういう私も年齢とともに免疫力が落ちてきたのか?今までの不摂生で高いツケを払うこととなった。皆さんも気をつけてください。

この後、予期せぬ試練が待ち受けていたとはこの時点で私は知る由もなかった。 (次回に続く)   

 

2013年09月01日 (日) | 編集 |
私が通ったハリウッド高校は、今では荒れた高校になってしまったが、私が通っていた頃 ( 1968~1971) は、文武両道で他校の模範となった学校だった。もう40年以上前の話だ。この高校は、当時、目が不自由な生徒や、耳が不自由な生徒の特殊クラスがあり、遠くからも通ってきて30名ほどが在籍していた。

私は音楽を専攻していたので、目が不自由な生徒とコーラス隊や音楽のクラスが一緒だった。時折、彼らをサポートしたこともあり、彼らからはいろいろ学ぶ事があった。目が不自由な分、音には敏感で、特に音楽では彼らの才能が生かされた。

耳が不自由な難聴の生徒たちも私になぜかなついていた。その中に沖縄出身の日本人が一人、そしてアメリカ生まれの日系人が一人いた。
日系人のポールは、フットボールチームの名キッカーだった。耳が不自由でも試合に支障がないキッカーとして、ロサンゼルスの高校選抜にも選ばれたこともあった。

驚いたのは、アメリカでは彼らを特別扱いせず、普通に学校生活を送らせていたことだ。甘やかす事もないし、親が出てくる事もほとんどなかった。
私は、こういった高校生活を送っていたので、日本の身体障害者行政に疑問を持つことが多い。アメリカではバリアフリーの整備が進んでいて、日本より身障者に対する国民意識が高い。そのせいか、身障者の多くが自立して生活している。

我が高校にはもう一つ特殊クラスがあった。それは「高校生の母親クラス」だ。彼女たちはシングル・マザーも多かった。高校生であっても、やけに大人びていた生徒が多かった。みんなそれぞれ事情があって子供を出産したのだろう。それを問い詰めることもなかった。何人かは同じクラスだったのだが、からかったり、イジメたりすることもなかった。

もし、日本でこういった特殊クラスがあると、私が間違っているかもしれないが、面白がって、からかったり、虐めたりするような気がする。特に日本の高校生は社会との関わりが、まだ欠如しているし、考え方や経験値が幼い。
日本でよく選挙権を18歳に引き下げると言う議論をしているが、私は日本はまだ準備不足と思う。新聞も読まない、仕事もしない、大人の友達もいない、政治や政府についての学習不足で経験値が低い高校3年生が選挙?勘弁してくれよ!

30年前、日本食レストランでマネージャーをやっていた頃の話だ。その当時、たまに寿司カウンターに座る、20代後半の盲目の女性がいた。私は彼女に、どうやってここに来るのか聞いたことがある。彼女はバスを利用して、バス停から白杖を手に、レストランまで歩いて大好きな寿司を食べに来ていたのだ。彼女は日本人である私を信用していたので、私が食後、勘定を彼女の耳元でささやき、彼女は札には何らかの印を付けていたのだろうか、ちゃんと料金を私に払ってくれた。私がおつりを渡すと、コインを手で確認して、札は「これは何の紙幣ですか?」と私に聞いた。彼女はまわりにも、私たちにも迷惑どころか、ちゃんとチップまで渡してくれた。

いつもニッコと微笑んで、日本語で「ありがとう」と言ってバス停に向かっていた。今頃、彼女はどうしているのだろう?これが、アメリカだ!

しかし、最近の日本食レストランはシナ人や韓国人が働くので、おつりをちゃんと貰えるのか心配だ。だが、その後、技術も進化したので、何らかのツールが開発されたかもしれない。

そういえば私が小学6年生の頃、テキサスの選抜チームと柔道の試合をして、私の相手が手首の先が無い少年だった。この少年がとてつもなく強く、私は寝技で押さえ込まれて敗退した。
1960年代この頃のL.Aは柔道が盛んで、ロサンゼルスに柔道道場が100以上あった。私の世代の日系3世や日本から移民で入ってきた日本人の子供の多くは柔道の稽古に通っていた。その中でも私は強い部類に入っていたのだが、このテキサスからの少年との対戦で、一生忘れられない敗北感を味わったのだ。


2013年08月09日 (金) | 編集 |

60年代のアメリカではレディーズファーストが当たり前だったが、その後、男女雇用均等法や女性の地位向上につれ、最近はあまり聞かなくなった。たまに小生意気な白人女性が女性優先を当たり前のように振る舞う。何かわざとらしい、不自然な世の中になったと実感する事が多くなった。

最近は、まず、日本と同様、若者の言葉遣いや年配者を敬う態度が欠如してきたように思う。「サー」と声をかけなくて「ヘイ・マン」「ヘイ・ドユー」はないだろう?たまに不愉快になって知らん顔をする自分がいる。
「マダム(マーム)」も聞かなくなった。
若造が、人にモノを頼む時、横柄で命令調な態度は頂けない。

テレビで男女のデート番組を見ていると、アメリカ女性の我がまま、アメリカ男性の女性をセックスの対象としか考えていない、無礼な態度と振る舞いが60年代のアメリカではあまり見かけた記憶がない。

スポーツクラブでも、人が出入りする通路にバッグや荷物を置くのは事故の元だ。器具を使用するときも、譲り合い精神を大事にしてもらいたい。最近は世界各国の新移民が多く、多様の文化、価値観が入れ混ざって、アメリカ的な香りが少しずつ失われていく。

日本が価値観や判断基準を今のアメリカに追随するとどうなるか、恐ろしい気になる。まだ、60年代には善悪がハッキリしていたし、正義感を持った若者が多かった。
私は戦争は反対だが、徴兵制度が終わった70年代の後半以降から、アメリカ社会が乱れてきたように思う。

現時点では日本の若者のレベルはまだまだアメリカと比べると、数段、まともだ。
それは、学校や家庭で譲り合いや、チームワーク、整理整頓、宿題に厳しく、窓拭きや雑巾がけや、墓参り、葬式、仏壇に手を合わせたり、葬儀などでの苦しい正座で忍耐を学ぶからだろう。

これらを実践している若者は少なくなったとはいえ、まだまだ存在すると信じている。
こういったアメリカでは考えられない素晴らしい習慣が、一部のアニメや漫画愛好家に新鮮に映るのかも知れない。世界中のそういった若者たちが、日本文化を身近なものにし、日本人の考え方、道徳観や習慣を模範にしようとしている。

世界が日本を模範にしようとしている時、日本に住む日本人や日本政府は自国に自信がないのか、アメリカだけではなく、世界中から嫌がられている中国や韓国に媚を売って、彼らから何を学び、何を得ようとしているのだろうか?
そんなに自ら、嘘だらけで、お互いを信用出来ない社会にしたいのだろうか?

日本人は「ウソをついてはいけない」、「他人に迷惑をかけてはいけない」と教わってきた。しかし、中国や韓国は「騙されてはいけない」「メンツを潰されたら仕返しを」といった自分よがりで、他人を騙しても騙された方が悪いといった教育だ。これが混じり合うわけがない。

アメリカは道徳観念や責任を強く求めず、自由が強調され過ぎてきた。アメリカにもモンスターParentsがいるようだが、多くは教育レベルが低い親が、教師をまるでベビーシッターかのように、教師に何でも押し付けるケースが目立つ。
最近、公立小学校を午後5時、6時まで延長する動きまであった。これは親が仕事の都合で、早い時間に子供を迎えに行きたくないからだ。要するに小学校が教育の場ではなく、子供の預かり場でしかなくなってきたからだろうか?

日本は何を勘違いしているのか、アメリカから学ぶべきものを学ばず、アメリカで社会問題になっていることを、後追いするようになった。犯罪も今までの日本では考えられなかったが、今ではシナ型やアメリカ型の犯罪が目につくようになった。

ヒスパニック系の不法移民の子供の多くは、テレビを遅くまで見たり、週末のパーティーに親と一緒に深夜過ぎ起きてはしゃいでいる。そのため、学校では居眠りする子供が多いと聞く。親の子供への展望や、教育や将来にかける考え方が日本人とは大きく異なる。

アメリカは子供の頃から独立心を植え付けるのが伝統と言われてきた。だから日本より自立するのが早いように思う。確かにアメリカの子供たちはマセている。しかし、最近は中国や韓国などからの移民が増え、必要以上に溺愛し、可愛がり過ぎる事で自立出来ない、スポイルされた若者が目立つ。

アメリカでは祖父母は孫の面倒を必要最小限しか協力しない。「もう十分、金、労力、時間を使って子供たちを育て上げた。その上、孫の面倒まで見る必然性はない。私たちは今後、老後を楽しむ権利があるのだから」と多くの老人たちはシニア・ライフをエンジョイしようとしている。
日本の老人が「孫が可愛くて、それが生き甲斐」とは大違いだ。

アメリカでは奨学金制度が発達しているので、成績が良かったり、本人がやる気があれば、ローンが組まれやすい。ケース・バイ・ケースだが、一部の金持ち、アジア系を除いて、子供が大学を卒業して働くようになったら、給料から返済していく場合も多い。

日本も親が授業料を出すのは勝手だが、金の値打ちや社会の厳しさを知るには、彼らの将来なのだから、責任を持たせた方が親の有り難みがわかり、自力で何事も実現しようと努力するようになると思うのだが。
授業料や生活費の仕送りをしてもらうことが決して当たり前ではない事を、教えていくべきだ。日本で生活して、「当然だろ」といった、私の経験値とは異なる風潮に、戸惑ったものだ。

「かわいい子には旅をさせろ!」
今はネットの時代なので、アメリカ留学が全てではない。安く英語を勉強したいのなら、インド、フィリピン、シンガポールに行く選択もできる。こういった国々で、貧富の差に触れて、日本の若者が恵まれ過ぎて、それに気づいていないことを感じ取ってもらいたい。ウズベキスタン、キリギスタン、ラオス、ベトナム、アフリカ諸国などの発展途上国から学ぶ事はいっぱいある筈である。

まず、勇気を持って第一歩を踏み出してもらいたい。そして、いかに日本が素晴らしい国か、日本人が正直で信用され、評価されているか、身を持って感じ取ってきてもらいたい。
先人たちは貧しく、何も情報がない時代から、海外に出て活躍してきた。海外から学び、その積み重ねと、日本人の創意工夫、サービス精神、ボランティア精神、こだわりが今日の日本を創ったのだ。

海外に出かけ、長く住んでいると、いかに日本が素晴らしい国か、日本人に生まれて良かったか、再確認出来る。日本人として恥ずかしくない生き方をしながら、日本人が持つ潜在能力を発揮してもらいたい!


2013年04月26日 (金) | 編集 |
アメリカはすべてのことで世界をリードしているイメージがあるが、それは大間違いだ。
アメリカ生まれのアメリカ人の70%以上は海外旅行をしたことがない。特に地方に住むアメリカ人の多くは、アメリカを出国することなく生涯を終える。

アメリカ人の多くは外の世界を知らずして、アメリカがすべてにおいてNo.1と思い込んでいる。いかにアメリカより生産性の効率がよく、他人を思いやる日本を過小評価している。というより日本や日本人を知らなさすぎるのだ。

これは日本のPR不足もあるが、日本人が中国人や韓国人のように、民族性や価値観をゴリ押ししない国民性だからだろう。

アメリカは世界中からの移民が集まった他民族国家だ。特に1980年代以降に新移民が増え過ぎ、民族バランスが乱れてきた。
今はドライバー・ライセンス試験、生活保護申請などスペイン語、中国語、韓国語、ベトナム語などで受けれるのだ。だから、最近、やたらと英語ができない住人が増えてきた。(さて、余談はここまでにして、本題に入ります)


アメリカから私が選ぶ、世界に誇れる身近なモノを、今後シリーズでお届けしていきます。日本製はちょっと値段は高いが、品質がよく、長持ちするので結果的に安上がりと思うのだが。

まず、爪切り

日本製を使用したら、アメリカの爪切りとは無縁になる。まず、日本製は切り味が違う。「パチ、パチ」の日本製に対して、アメリカ製は「パチーン、パチーン」と力が5倍かかるし、切った爪が、あちらこちらに飛び散るのだ。
私の母が最近入所した「日系敬老介護ホーム」に日本製の爪切りをPRしたら、もうすでに数年前から使用しているらしい。

今治タオル
アメリカの富裕層の間で人気があります。アメリカのタオルは色だけは豊富に揃っているが、作りは雑で、洗えば変色したり、糸くずが出てきたりする。バスルームの飾りに過ぎない。
見た目は華やかだが、肌触りは悪いし、長持ちしない。あまり薦められない。要するに実用的ではない。

それと私は日本で、友人や親戚を訪ねると、新聞屋さんなどが景品で以前配っていた、「手ぬぐいタオル」を数枚持ち帰る。
これは私にとって、なかなか便利で利用価値がある商品なのだ。


鉛筆と鉛筆削り
これは絶対に日本製を使用する。日本に帰国の際、コンビニや100円ショップで買う、ごく普通のモノで十分です。日本で生活していると、何でもないモノでも、海外で生活すると有難さを実感する。
アメリカの鉛筆は新しくても、芯が一度折れると、どんなに削っても折れまくり、最終的に3cmぐらいになって無駄になる事が多い。その点、日本の鉛筆は削り心地も書き心地も最高。
鉛筆削りも刃の品質がいいので削り具合がいい。


和ろうそく
日本に帰国した時、福井県の曹洞宗総本山、永平寺や京都でで買う和ろうそくが最高だ。何といっても炎の安定性と大きさだ。以前、和ろうそくに向かって、手をかざして「気」を送った。そして「左に動け」と念じたら、左に炎が動き、「右に動け」と念じたら右に炎が動いた。こりゃあ凄いと思い、毎日10分ぐらい和ろうそくの炎に向かっていた。炎を見つめていると、心が落ち着くのです。
私は子供の頃、火遊びすると「寝小便する」と言われて育ちました。坂本龍馬は10歳過ぎても寝小便をしていたらしいが、私も自慢じゃないが、6、7歳ぐらいまで寝小便をしていたと記憶している。

ある日、日系スーパーで買った普通のロウソクで同じように念じたのだが、炎に変化なし。和ろうそくに向かうと何だか、異次元に入り込むような錯覚?と自分自身に霊気があるんじゃないかと思うほど異次元を体験出来るのだ。

宅急便、宅配
サービスと信頼性は日本が世界一だろう。アメリカの業者は、平気で荷物を投げたり、家の前に放置する。誰かが無断で持ち逃げしたらどうするんだろうと思う。客のための細かいサービス精神はアメリカ人は持ち合わせていない。
アメリカの郵便ポストに郵便物を投函して、5度相手に届かなかったことがある。だから直接、郵便局に行って投函する。これも100%安心とも思えないが・・・。

アメリカでは外国人は郵便局や公共施設では仕事ができない。勿論、参政権はない。
現在の日本の一部ですでに実施されている地方参政権は気違い沙汰だ!日本の地方議員や役人は何を考えているのか理解に苦しむ。

以前は日本に帰る度、大きな荷物を持って移動したものだ。今は空港からバッゲージを宅配サービスにお願いし、出発前には空港に宅配してもらう。何と安値で便利で信頼出来るサービスだろう。大阪万博で初めて帰国した時は、大型バッゲージを2つ、紙袋、バックパックで、移動する度、汗ビッショリだったことを思い出す。体力的にも今だと絶対無理である。そんなエネルギーは持ち合わせていないし、行動が制限されて効率が悪い。だから最近はいつも小さいバッグだけで身軽に動き回っている。

まだまだ日本が誇るものはいっぱいある。「おもてなし」もそうだが、今回はこの辺で。


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